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結局どうなのよスワンソングて



誰が正義か
 多視点で語られるこのゲームにおいて、最も多い視点は司である。
いわゆる「善」のサイドとして司や田能村が居て、「悪」として拓馬が描かれることが多い。
プレイヤーは見たままに善悪を振り分けて認識することになる。

 しかし、極限状況下においての善悪の意味とは何なのか。
いや、極限状況で無くともいい。社会における善悪とは何なのか。

 このゲームのシナリオ中においては、誰もが自分の正義に従って行動している。
だからこそ反発し合い、譲れない自らの正義の為に衝突し合う。
過程と結果が異なるだけであり、行動の根拠は一緒である。

 自分の正義に従って行動した結果が良い方向に転がって「善」に見える司や田能村と、
同じく自分に従って行動し結果として「悪」を為す拓馬はどこが違うのだろうか。
己の生き様を貫く登場人物に対してプレイヤーは反発ないし共感を得る。
どちらであれ、それは人として当然の感情と言えるだろう。

 司や拓馬のみならず、雲雀ですら自分の正義を持っている。
そんなメインキャラ達の中で唯一自らを持たないのが柚香だ。
彼女は最後まで仮面を被り、拓馬の懐柔に失敗し、
そして誰も居なくなった世界で一人生き残る。

 何と皮肉な結果であろうか。
唯一自分の正義を持たない人物が何も無い世界に生き残る。
それは自分の正義を持たなかった故の罰なのか。
それとも、仮面という正義を貫き通した彼女に訪れる福音なのか。
果てた世界で、彼女はもう誰にも迎合することは無い。


 そんな登場人物達に対してどう思うのか。
プレイした限り、私はスワンソングをそのようなゲームと認識した。

 じゃあ、あろえって?



白鳥の歌
 
白鳥は死ぬ前に、最も美しい声で一声だけ鳴く

 ヨーロッパに伝わる伝説だそうだ。
本編でも竜華樹様がちょっとだけ話題にし、
シューベルトの歌曲集のタイトルでもある。
余談だが歌曲集の中には白鳥が出てくる物など一つも無いらしい。

 この言い伝えには、「遺作」や「辞世」といった意味も含まれているそうだ。
シューベルトの死後に編纂された「白鳥の歌」はそういった意味から来ている。

 白鳥は鳴かない鳥であり、これは人々の想像から来ている俗説である。
SWAN SONGとわざわざタイトルにもつけられているように、
これが本来このゲームが描きたかったテーマなのだろう。


 自分の正義を貫く登場人物達に対し、物言わぬあろえの存在。
白鳥が誰を指すのかは明白であるとして、
「鳴かない」あろえが「死ぬ前に一声だけ鳴いた」とはどのような意味か。

 本編において、あろえの死は余りにもアッサリとし過ぎている。
死ぬ前に何か言う事も無く、結局一度も彼女の内面は推し量れぬまま物語は終わる。
彼女はそれでも生きたかったのだろうか。嘆き悲しみ死んでいったのだろうか。
サッパリ意味が分からない。てゆうか書いてない。


 では、「白鳥が死ぬ前に鳴く」ことの意味は何なのか。


「白鳥は、死ななければならないと気づくと、それ以前にも歌ってはいたのだが、そのときにはとくに力いっぱい、また極めて美しく歌うのである。それというのも、この鳥は神[アポロン]の召使いなのだが、その神のみもとへまさに立ち去ろうとしていることを、喜ぶからなのである。ところが、人間たちは自分自身が死を恐れているから、白鳥についても嘘をつき、白鳥は死を嘆くあまりその苦痛のために別離の歌をうたうのだ、と言っている。しかし、人々が考えてもみない点は、どんな鳥も、飢えたり、凍えたり、なにかその他の苦痛に苦しむときには、けっして歌わない、ということだ。伝説によれば、苦痛のために嘆きの歌をうたっていると言われている、ナイチンゲールとか燕とか仏法僧でさえ、そうではないのである。僕には、これらの鳥もかの白鳥も苦しみながら歌っているようには見えない。むしろ、僕が思うには、白鳥は神アポロンの召使いであるから予言の力をもち、その力によってハデスの国にある善いことを予知し、まさに死なんとするかの日には、それ以前のいかなる日々にもまして特別に歌い喜ぶのである。」
(プラトン『パイドン』、岩田靖夫訳、岩波文庫、90頁)
(さらにこれをどっかのページから引用)


 だそうだ。
結局、白鳥=あろえがどう思っていたのかは読み取れない。
人間の本質的に、生きたかったのかもしれないし、
プラトンさんの仰るように喜んでいたのかもしれない。
そもそも何も考えていなかったのかもしれない。

 完成したあろえの遺作である石像を司が見上げ、本編は幕を閉じる。
あろえが死ぬ前に啼いた、その結果としての聖像は何を意味するのか。
人間として足掻いた登場人物達の生き様をも根底から覆すテーマが、
SWAN SONGにはあったのかもしれない。



 


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